大阪市は「無くなる」んですよ!

ツイッターとフェイスブックで繋がっている方とのやり取りで、相変わらず「都」になっても大阪市がなくなるわけではないと思っておられる方が結構いらっしゃるのではないか。ツイッターで単に誹謗中傷の為アカウントをとって群がってくる輩とは違い、きちんとお話できる人ですらそうであることに気づきました。

その方にあてて先ほどツイッターで呟きましたが、あぁ大阪市だけのことだと思っておられる方にも、そうではないことを伝えたいと思い書きます。7月の参院選、兵庫知事選、その後の堺市長選、神戸市長選などなど、政治日程は連続していますが、日本の「地方自治の危機」であるという認識を広げてもらえませんでしょうか。

大阪市を分割して小さな自治体にし、目の届く行政をする…一見聞こえのいい「うたい文句」ではありますが、現実をみると、この方たちは効率化、民営化、自己責任論を標榜している人たちです。そして他人に厳しく、自らに属しているものには甘くという姿もこの間多々目にしてきました。

「大阪都」になると「大阪市」が潰される、それは今の税収とはまったく違う構造になることを意味します。結果として住民サービスだけではなくて、都市インフラとしての機能の責任範囲をめぐっても信じられないくらいの議論が必要であり、そこに貴重な労力を削がれるのは間違いありませんし、それによって現れる都市の姿は日本の中枢都市として引っ張ってきた「大阪市」の姿ではありません。

是非、そういう認識をきちんと持っていただきたい。その上で「特別区」という名の自治体になるかどうかの判断をして頂きたいと思います。

前置きが長くなりました。今朝のツイート(再構成部分あり)です。

「市会だよりの3月号が全戸配布されてるはずです。大阪市がなくならないというご認識が間違いという1月28日の委員会質疑の内容が bit.ly/ZnhPXw にあります。

1月28日財政総務委員会のまとめですが、4問目の質疑で橋下市長が「大阪市を40~ 50万人程度の基礎自治体にしておくことが必要であります」とあります。これでも過去の合区と同じと考えられますか。

「大阪市会だより」を引用したのは、相変わらず幻想のみを振りまき続け、「都」になればすべてよくなるというその「都」自体が、いまだに大阪市民の間でも「合区」と同じ認識でしか捉えられていないことに警鐘を鳴らしたかったからです。潰すという「現実を知られたくない」という意識を感じます。

大阪市会では各委員会のインターネット中継も録画のアップもあります。今日引用した市会だよりの当該部分は bit.ly/13E5lQW の自民党柳本市議の質問部分です。

知らせたくないことをひた隠しにして、仮装の利益のみを振りまき続ける、それが目に付きやすいからマスメディアが踊らされる…いや、メディア自身の中に巣食っている病巣が、むしろその方向を推進する側になる。病巣が自らのうちにあることを気づきもしないメディア… 」

以上がツイッターの内容です。これは昨日アップしたTPP問題を巡る報道のあり方や、情報の流れ方の問題と同列視できると思います。現在はSNSを通じ、さまざまな情報が瞬時に全世界を駆け巡ります。ならばこそ、マスメディアの役割というのが重要であるという思いを持っているのですが、それに気づくメディアの住人が少ないのが現実だし、特に影響力の強いテレビの世界がこの国を土台から揺さぶっていいのかという問いかけでもあります。

「凱風館」での寺子屋ゼミ

2月26日に内田樹さんの凱風館で寺子屋ゼミに参加。

私の公共政策ラボ( http://www.with-ppl.jp/ppl/ )が去年7月から始めた「ポストグローバル社会と日本の未来」というシンポジウムの一応の区切りとして寺子屋ゼミ生を前に、内田樹、中島岳志との鼎談をしたものです。

「いま、日本、なぜ」という大きなくくりのシンポジウムを東京で2回、大阪で1回開催し、その流れを踏まえてこれからの日本がどうあるべきか、どう進むのかを「拙速」ではなく、地に足をつけて探りたいという試みです。

それが公共政策ラボの目指す方向性なのですが、去年7月以降の大きな流れ、特に政権交代をもたらした昨年末の衆院選以降の流れをなど、この半年余りの間に大きく変わったように見えるものの、格差拡大、雇用の不安定、少子高齢化などの流れが変わったわけではありません。

シンポジウムに参加していただいたパネリストは敬称略で1回目が内田樹、小田嶋隆、平川克美、中島岳志。2回目が内田樹、イケダハヤト、小田嶋隆、高木新平。3回目が第1回と同じメンバーでした。

いずれもコーディネーターは私が担当し、その流れを受けた第4回を「寺子屋ゼミ」と合流して開催したものです。この一連のシンポジウムで提示した内容を、第1回、第2回の会場を提供してくれた「講談社」から夏までには出版すべく準備に入ってもらっています。

2月26日の冒頭では、中島さんの日米首脳会談を受けたTPP問題から話が始まり、丁度朝日新聞紙面批評欄に掲載された内田さんの「まったなし主義を疑え」という言葉を引きながら、ダイナミックに話が展開しました。

また、内田さんは「いのちとくらし」は短いスパンでは語れないナマモノであり、視野の長さが全く違う価値観で性急に結論を急ごうとする現在の流れに警告。

「凱風館」という道場兼パブリックな空間で、さらに「学びたい」という人たちが集う寺子屋ゼミ生の前で、ある種の「波」を感じながら話を進めさせてもらいました。

タイトルも何も決まっていませんが、編集者と話した際に「タイトルは小田嶋隆さんに考えてもらおうか」とつい口走ってしまいました。小田嶋さんオファーがいくと思いますが、よろしく!詳細が決まればフェイスブックやツイッターでまたご報告します。

ある方のフェイスブックでの感想から

ある方から私の投稿へのご意見を頂戴し、その中に「橋下さん」と「離反」したことについての記述がありました。大阪市民は是々非々で協力できなかったのかと思っているという記述(原文ママではありません)があり、それにきちんと反応したくて長文のメッセージをその方宛という形で書きました。

折角ですから、ここに「投稿」としてコピーします。今、活動をしている公共政策ラボ http://www.with-ppl.jp/ppl/about/ の方向性も書かせてもらいました。
また、「橋下批判」かと取られる向きもあるかも知れませんが、今の活動の「原点」にも当たります。私のブログや、月刊文芸春秋への寄稿などでも書いていますが、改めて読んで頂ければ幸いです。

では。

「いつも、いっていることですが、彼(橋下氏)が水道協議の2年の積み重ねを、何ら連絡することすらせずに、単に「他の市町村が納得しない」といって、努力を怠ったことから、一旦は合意していたコンセッション方式が反古にされました。

たかじんさんの「あかるクラブ」での対談でそのあたりもハッキリ指摘したのですが、マスコミには殆ど取り上げられませんでしたね。是々非々協力…当然でしょう。
ところが、その態度から一番離れているのが橋下さんですし、「裏切り」を平気でできる人だから信頼できないだけのことです。

多くの支持者がいることすら不思議ですし、○○さんのいわれる「世界の速い流れ」に取り残されるのは市民、国民ですか?そういう意味でも、私はTPP慎重論者(むしろ反対)ですし、原発依存社会を抜け出すのも福島の現実を見れば「国民を思う」政治家であれば当然です。

一方で、新自由主義経済から恩恵を受けるであろう(これもいつ瓦解するかわからないほど不安定です)方たちが、格差社会の定着を願う気持ちも許されるのがある意味「民主主義」なのでしょう。

私は大阪市長をやらせて頂くまでは、弱い人の立場に立つというスタンスはあっても、ここまでの意見を持っていませんでした。しかし、4年の任期を終え、現在一市民として公共の役割を考えると「小さい政府」はある程度仕方がないにしても「小さすぎる」政府では格差が拡大し、社会不安に結びつきかねません。

小さい政府でも大きな社会で支える、そうした中間支援組織として住民、市民恊働を捉えています。公共政策ラボでは震災、津波、原発事故を経験したこの国ならではの展開を、力のある都市は都市としてできることを国に提案し、住民とともにこの国を作り直す動きに繋げたいと思っています。まぁ、本当に微力ですが…。」

以上です。

豊かさとは…暉峻淑子さんとお会いして


2月8日の「ラジオの街で逢いましょう」にご出演いただいた暉峻淑子(てるおかいつこ)さん。僅か1時間半ほどの時間に、暉峻先生の歩んでこられた道をお話しいただくということは無理だと分かっていました。

でも、初めてお会いした私にも関わらず、バブルがはじける前に書かれた「豊かさとは何か」以来、近著「社会人の生き方」に至る3冊で、常に金銭至上主義の流れに抗してこられた暉峻さんならではのお話が伺えたと思う。

折角頂いた命だから、その時間を有意義に過ごすために「社会」がどうあるべきか、「社会」にどう関わるのかを考えて行動するのが人間社会の「社会人」。

普通に「社会人」とは仕事についたら社会人、選挙権ができたら社会人…と狭い範囲に思いがちだが、「社会人の生き方」では、この感覚を広く寛く捉えてこそ社会人だと書かれる。

「社会は、歴史が積み重ねてきた、国境を越える知恵と経験の宝庫である。そこから何かを得、またそこに何かを付け加えることなくして、何の生きる意味があるというのだろう。社会に支えられると同時に、社会をより良く変えていく社会人の生き方の中に、未来への希望を見出したい。」(岩波新書「社会人の生き方」まえがきページⅳ)

私たちに植え付けられた「既成概念」の衣を脱ぎ捨てるにはかなりの時間と努力が必要だとは分かっていても、一歩ずつ歩みを進めなければ、この日本はどうなるのだろう。高度経済成長のまっただ中を団塊の世代として過ごした私にとっても、考えさせられることの多い、貴重な時間を過ごさせてもらったと感じた。

ラジオデイズでは「ラジ街」をツイッターで実況中継している。今朝、昨日の分の中継部分をtogetterでまとめてみた。 http://togetter.com/li/452756 お話の流れが一目瞭然。ライブで視聴された方にはお分かりいただけると思うが、来週金曜日に「ラジオデイズ」のコンテンツとしてアップされた時の参考にもなると感じる。

「サンタクロースってほんとにいるの?」という絵本の作者(文)でもある暉峻さんの真ん前で大胆にも「朗読」をさせて貰った。久しぶりに楽しんだ。

そして、最後にユーゴからの招待で阪神淡路大震災で被災した小学校2年生から大学生まで24人を連れてベオグラードに行かれた話になった。(岩波新書「豊かさの条件」p.158 被災地に届いた招待状)

番組の最後に当該書p.160-162の一部をハプニングで朗読させてもらった。ホームステイ先から白血病の子ども病院を訪ねた話である。病院を去る際に、訪問した子どもたちから起きた「ふるさと」の合唱の話である。初めて読んだ時に手が止まり、目がかすんだ部分をご紹介して番組を終えた。

暉峻先生、ありがとうございました。

ヒートアップ気味ですが…

マスメディアがいつまでも人気者だから追いかけねばと思っていたら、いつの間にか「単なる興味本位」で「また、アホなこというねやろ」という興味でしか見る人はいなくなる。

そんな次元に既に到達してしまった感がある「ある人」について、「みんな気がついている」という思いは、単に弱者(現在は)のマスターベーションに過ぎない。

向こうは力づくで、民主主義の時間がかかるあらゆることに、嵩にかかって攻め込んできている。

あなたは弱者、もしくはこの国をより多くの人が幸せを感じながら生きられる国にしたいと考えている人ですか。そうでなければ、強者の論理を展開されればいいし、もし、そうなら気付いた人の輪を広げないと、この夏の参議院選挙ではもっと勢力が増えてしまう。

別の首長選挙でも軒並み「維新優勢」だそうな。では、大阪維新が過半数を制し、中央からの指示で維新にすり寄った公明党と共に一昨年4月の統一地方選挙以降、大阪府のどこが良くなったのか。スピード感溢れる「大阪維新」ならとっくに成果は出ている筈。

「壊し屋」としての面目躍如なのはこの間の大阪市政・府政をみれば明らか。でも、壊すほど簡単なことはない。あらゆる利害関係者と透明性を保った上で調整するという気の長い仕事をするからこそ、専門的知識と、法律/条例に依拠し、利益至上主義でない市民に向けた行政ができる。

気付いた人たちの連帯の輪を広げたい。この限られたSNSの世界だけではなく、実際に生活している空間で、この認識を多くの人と共有し、その数が過半数を超えた瞬間に、あの勢力はいくらマスコミがもてはやそうと、もはや砂上の楼閣に過ぎず、少し押し寄せるだけの波にも飲まれてしまうほどの寄せ集めにしか過ぎない。

フェイスブックで「友達」増えることから…

「友達」急増について。
イベント案内がしょっちゅうくるようになりましたね。そして、オフ会でお会いした方との安心感というのは格別です。思想、信条は違っても、会話が成り立つという部分で、繋がりを感じられる。

とことん話し合えばどこかに着地点を見つけられる…行政というのはとことんの話し合いを、どれだけ透明性を確保しながらやり遂げるかであって、押さえつけ、脅し、逆らえば仕事まで奪うというスタイルは、行政が逆に指導しなければならないスタイル。

大阪維新の会には、教育基本条例といい、職員の政治活動規制条例にしろ、自分たちが如何に強大な権力を保持しているかを見せつけるパフォーマンスしか感じない。

人間としての繋がり方も、利益至上主義、金の切れ目は縁の切れ目的な浅さを感じるから、信用できないし、未来を任せる気なんか起きない。

そんな気持ちでいる人が増えないと、ますます「維新」という名の権力志向、国民無視、財界優先の時代がくることは明らかなのに。

もちろん、自己利益、自己責任、自分だけが安全な世界であればいいというかたは、「維新支持」も許されるのが民主主義である。そして、そんな人たちと真逆の価値観を訴える自由も保証されるのが民主主義。

書棚から呼びかけられて

今朝の呟き(ツイート)に少し手を入れて構成しました。

書棚を眺めていて、なんの気無しに手に取った本が、まさに今の状況を指し示している内容であったりした時の嬉しさは格別。以前に読んでいた記憶がどこかで繋がっているのかな。そんな一冊、鷲田清一著「死なないでいる理由」角川ソフィア文庫。

「死なないでいる理由」のあとがきには文庫化される6年前に同じタイトルで単行本を出された鷲田さんが、胸のつかえを感じたまま角川からの文庫化にあたり全面的に「新しい本」として出されたこと、また、「死なないでいる理由」を終生の主題と思い定めていいのだろうと書かれている。

2008年に出されたこの本が、本棚から「もういっぺん目を通して」と呼びかけたのだろうか。プロローグに続く第一章、「寂しい時代」の第3項で「うつろいゆく成熟のイメージー教育という装置」には「おとな」と「こども」の境目など、今、さらに混沌の度合いが増している状況を鋭く描かれる。

引用です。「これ以上向こうに行くと危ないという感覚、あるいはものごとの軽重の判別、これらをわきまえてはじめて「一人前」である。ひとはもっと「おとな」に憧れるべきである。そのなかでしか、もう一つの大事なもの、「未熟」は護れない。
「死なないでいる理由」(現代おとな考:角川ソフィア文庫p.72)

哲学者鷲田清一先生が阪大総長時代、「ナカノシマ大学」のキックオフイベント「街場の教育論」でご一緒した。それがきっかけになって「おせっかい教育論」(出版140B)の出版に繋がった。市長時代に得られた多くの人たちとの繋がりが最大、最高の「役得」であると、この頃しみじみ思う。

哲学者の書く本は難しいやろな…そんな先入観は専門にされている方以外には共通だと思う。でも、ワッシー(失礼)に紡ぎ出される言葉には「ひとの体温」を感じられ、思わず小膝を叩くことも多々。