石原都知事が辞職と「国民の生活が第一」結党パーティ

今朝の朝刊を一読した印象をまとめてみます。例によって、今朝の呟きを少しだけFB用に加工します。

別に「国民の生活が第一」を応援しているわけではありませんが、朝日新聞の今朝の紙面を例示してみる。昨日の「生活」結党記念パーティに4千人の記事は4面ベタ20行と写真。これが現職国会議員を50人近く擁する新政党への扱い。一方、都知事辞職関連は…。他の新聞、テレビも同じなんだろうな。

49人の国会議員を擁する「生活」の現役議員の方たちの日頃の動向は、恐らくそれぞれの支持者あての発信は
されているだろう。でも、なかなかマスメディアに載らないことで、第…極という存在でもないかのような扱いが続く。9月14日のMBS「辺境ラジオ」公開録音でも指摘があったなぁと思う。

「辺境ラジオ」は内田樹、名越康文両氏にMBS西アナが司会の不定期放送番組。「国民の生活が第一」の動きがニュースにならないのか。不思議だなぁ…という導入部分でのお話だった記憶が。「辺境ラジオ」のポッドキャスト http://bit.ly/f0T9CF で確認しようか。政局ってこうして「無意識に植え付けられる」印象に左右されてしまうのか。

新聞の見出しの付け方一つで「印象」は変わる。「記事内容を読んでくれるから、見出しはあれでいい」ということではない筈。多くの市政記者と話す中で、「なんであんな見出しになったの?」と聞いたことも多かった。記者は「デスクが…でも中身はちゃんと書いてるでしょ」との返事多し。

見出しと内容の温度差が大きいことはよくあるけれど、本当に読んでもらいたいことが「立つ」紙面というのは、読んでよかったなと思わせる導入、つまり「見出し」が「立っているかどうか」ではないか。見出しに印象操作されて、「本当に書きたかった」ことが埋没している場合が多くはないだろうか?

たまたま、今朝の新聞の記事の割り振りを見てて、感じたことを書き連ねた。都知事辞任会見、「生活」結党パーティが同じ日の紙面に出ていたことから、新聞の見出しやマスメディアについて、日頃感じていたことを呟き、少し手を入れました。

9条どうでしょう

10月18日に公共政策ラボのシンポジウムが終わった後の打上げで、2006年毎日新聞社から出た「9条どうでしょう」の文庫化(ちくま文庫)がきっかけで、内田樹、小田嶋隆両氏の交友関係が始まったことが話された。

もっと以前からのお知り合いだと思っていたのですが、6年前からとは少し意外な感。

そこから話は「9条どうでしょう」の内容に移る。

これについては私のツイートを再録します。
まず、シンポジウム関連を

「18日に開催した、「ポストグローバル社会と日本の未来」第2弾はニコニコ動画の会員なら見られるんですね。あと有料コンテンツとしても現代ビジネスチャンネルに上がっているようです。 http://bit.ly/VsAa8g ご覧になられた方のご感想も是非お寄せ下さい。」

そしてこんなことを午前と深夜に呟きました。

「シンポジウム後の打上げ席上、内田先生と小田嶋さんが出会うきっかけになった話が。06年毎日新聞社から「9条どうでしょう」を出すことでリアルなおつきあいになったそうです。ちくま文庫になって10月10日にでた「9条…」を翌日ゲット。知り合いに勧めたら先に読了されたとか…(焦)

まだ、途中ですが、「9条どうでしょう」、内田さん、小田嶋さんが話されていた「内容的には全く古びていない、むしろ今日的な」という側面を実感しています。共著者は平川克美さん、町山智浩さんの4人。ちょっと焦ってるので(笑)、今日中に読了したいなぁ。」

そして夜。

「9条どうでしょう」ちくま文庫版、読了。とても6年前に書かれたとは思えない。それと同時に内田樹、平川克美、小田嶋隆、町山智浩という4人の著者が、別に打ち合わせをしたわけでもなく、それぞれの切り口で「古くならない」テーマ、「理想」というものにアプローチしているからか。

今朝も呟きましたが、内田先生、小田嶋さんのお二人は、「9条どうでしょう」という本を書くことでリアルな交友関係ができ、その後の様々なセッションに繋がっている。その事実をシンポジウム打上げで知るまで「9条どうでしょう」という題名からくる印象に、避けて通った自分に気付く。

憲法第9条論議は、改憲派、護憲派と色分けして二項対立図式にピタッと収まってしまうかのような側面を持ち、できれば避けて通りたいテーマであろう。それについては文庫版のまえがきでも、6年前のまえがきにかえて、でも触れられている。敢えて踏み出した6年前を今に繋いだ文庫化は大きい。」

以上です。