非常識では

この間の地下鉄民営化を巡る、市長と議会のやり取りで現象面だけが取り上げられ、あたかも値下げがいいことだ(安いものがいい)との一面だけを報じていた部分はないのかな。今日になって、180円に値下げしても1区間運賃だけで、他の区間は消費税増税とともに10円上がる。(朝日新聞)

民営化は公約だからという市長、民営化をすると市民にこれだけのプラスがある…その実例が200円の1区運賃を180円にすることなのか。違いますよね。大阪市民の巨額の税金をつぎ込んで出来上がった地下鉄網。この資産価値はこれだけ、民間が運営すると税金収入があがる…とか。

具体的な話はでていますかね。どこが購入するのかわかりませんが、市長が目指していたのは「完全民営化」。つまり公共が一切かかわらない形ということでしたが、それも議論になっているのでしょうか。確か副知事時代の猪瀬さんは都の地下鉄は51%の株式を公共がもつ方向を示唆されていた記憶が。

「地下鉄民営化」という言葉の響きが「郵政民営化」と同じように「いいものだ」という印象操作がされているのではないか。この間の190円、180円騒動。そして認められなければ再値上げという「脅し」に似た手法。非常識がまかり通るやり方に、メディアが慣れ過ぎたきらいはないのか。

なぜ、「非常識」という言葉を使うのか。民営化にしろ「身売り」にしろ資産「価値」こそ全てという、企業経営の視点からみると最高「価値」を高めておいて「高く」買ってもらうことが、面倒な企業経営を売り抜ける手法のはず。

180円か、190円かという話に決定的に抜けているのが経営視点ではないのかな。京福電鉄から呼ばれた交通局長もきっと面食らっているはず。累積赤字の解消とともに経営黒字体質になって、ぎりぎりの経営努力をしたら市長の意向をくんで190円にはできるとまで歩み寄ったのに。

大阪市議会で全会派(維新を含む)が賛成した地下鉄8号線延伸は「市民の代表」としての市民の足だからこその「熱望」であって、民営化後は採算性の面だけの検証になることは当然。しかも1区間利用者が3割とはいえ10円値下げ幅拡大は経営面ではマイナス要因。

値下げするために必要なシステム改修費、運賃表書き換え、民鉄との相互乗り入れも含め膨大な数、当然そちらも必要になる。その費用はいくらかかるのか。これも経営視点。それが180円から再値上げとなると二重の費用がかかること。

結論は「民営化が通らなければ再値上げ」という「脅し」が「非常識」であることをどうしてメディア指弾しない。普通に考えればわかることが橋下さんに逆らうとロクな事がない…とか、まぁいつもの打ち上げ花火だからと「分ったつもり」でスルーする怖さを指摘したくて長々書きました。

予定変更

淀川区長のことを書いて、次は当然セクハラ校長のことを書こうと思って書き始めたら、この記事がでたので予定を変更。 

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/131025/waf13102511430010-n1.htm 

ツイッターで「顛末書の報道でも呆れるしかなかった「校長」。当たり前の結論。900人を超える応募から選ばれた11人の1人。」と呟いて記事を紹介しました。

今朝の新聞によると、来春予定されている35人という公募校長の「数」にはこだわらないと大阪市教育長が語ったとか。当然でしょうね。

928人の応募者から選ばれた11人。そのうちの6人が何らかの問題を起こす、あるいは着任後わずかな期間で辞める。さて、当初35人の採用を目指した今年の応募者は142人。(6月28日読売新聞)最終面接に残っているのは71人だそうだ。(10月25日朝日新聞)

成果主義だとか、スピード重視だとか、決定の早さだとかをもてはやす傾向があるようですが、「公募」即ち「良い」ものだという思い込みに踊らされることのないように気をつけないとと感じますね。

ブログ「内田樹の研究室」で公募校長に関して書かれているのがこちら http://blog.tatsuru.com/2013/09/20_0937.php です。

劣化

政治の劣化、メディアの劣化が言われて久しい。メディアに居た人間でありながら、取材される側にたったことから余計にメディアの劣化に敏感になっているのかも知れない。市長在任中も含めてこの数年間、その思いは日々膨らむような残念な思いの積み重ねである。

最近、政治向きのことを書いていないなぁと思いつつ、その理由を探すと「ばからしい」ほど単純な話を、さも「熟慮」しているかのように表現し、伝え、それでメディアの役割を果たしたとでも思っている向きが多いのではないかという気がするのでその1回目。

「日本を取り戻す」のは日本の良さ、この国の歴史、伝統、地理的特性などなどを長期的視野からとらえ、これから先の世代にどういう国として伝え、先人の知恵があったからこそ、この国があると思ってもらえるのかという状態に戻すことではないのか。

その1)
身近な例ではやはり大阪市。職員の中でも市長、副市長という特別職に次ぐ...
報酬を受けている「公募区長」の資質の問題。私は「アホか」発言や酔った上での発言時点で、なぜこんな人がと思ったが、今回の議長問責問題空転錯覚呟きでは、とうとう「公募」と「公選」の区別すらつかない人であることがわかった。噂によれば釈明の為呼び出された委員会に「(区の)腕章」をつけて入ろうとして議会の事務局から止められ、半ギレ状態でわめいた声が委員会室に届いたとか…。

もうおやめになったら…そんな思いと同時に私は淀川区民でなくて良かったという思い。役所生え抜きの職員がこんな区長になったらと思うとぞっとする。

いや、他にいい部分があるから…今回は大目に…そういうとりなしの意見があるのかどうかも知らない。「他にいい部分があったとしても、区長という重職には向かない」とはっきり判断して、他部署への転属を考えてはどうかと思っても、「公募区長」という資格審査に通っているので配置転換できないのかも。

普通に考えると「辞任して当然」という当たり前のことが、「熟慮」しなければならない世の中って何?

「いさぎよい」:思い切りがよい。未練がましくない。また、さっぱりとしていて小気味がよい。「―・く身を引く」「―・く戦う」。道に反するところがない。潔白である(デジタル大辞典)

さぁ、それに対して「任命責任者」はどう答えたか。「かくかくしかじか」と答えましたとしか伝えない報道って、伝声管でしかないというのは随分昔にブログに書いた。本来は権力と喧嘩してでも「筋」を通すのでは。大声で「ばかもの!」と叱りつけるようなメディアはなくなりましたね。

右もバッシング、左もバッシング、ならうちもバッシング。右は黙殺、左も黙殺……。
さぁ、2回目をかける気力が残っているかな。書く気になればアップしましょう。

8月31日から全国40のコミュニティFMで「たね蒔き」

明日に放送が迫ってきたので、お知らせです。

「ラジオフォーラムという番組をご存知ない方も多いでしょうね。「たね蒔きジャーナル」なら覚えておられる方も多いでしょう。存続運動カンパで集まったお金を資金に、新たなラジオジャーナリズムを展開したいという動きです。」

http://www.rafjp.org/ がHP。パーソナリティ今西憲之さんのゲストとして出演しました。放送は8月31日からで、中波で聞けるのは九州と沖縄。そして40を超えるコミュニティFMということです。放送局案内はhttp://www.rafjp.org/broadcast/ で確認を!

さて、ラジオフォーラムの肝心の中身ですが、タイトルは「平松さんはどう見てはんのん?大阪市政と大阪都構想」というもの。比較的自由に話をしましたが、はっきりしているのは大阪都構想で潰される大阪市民には何のメリットもないこと…言い続けてきたことを繰り返しました。

明日、放送開始です。
今西憲之さんは「原子力ムラの陰謀」を8月30日(今日ですね)発行。週刊朝日で大反響を呼んだ連載の加筆単行本化です。今、読んでます。

堺市長選挙、中央の視点とは。

今朝の呟きから、少し加筆してアップします。

堺市長選挙をめぐり、朝日が全国版の4面に「気が進まぬ堺の陣 市長選、自民推薦まだ 安倍政権、維新と決裂危惧」という記事。(無料会員登録でも見られるのか、いずれにしても会員登録をしてからクリックしないとちゃんと表示しないようです。すみません。)http://digital.asahi.com/articles/TKY201308270668.html?ref=pcviewpage  中央版らしい「政局」睨みの記事だと感じるが、地方自治のリーダーを選ぶという視点が全くない。(それが全国版の4面ということか)

この記事で誘導されるのは、中央政局と地方自治の現場がリンクしているのが必然という「基本認識」から書かれている感覚。これでは「相乗り批判」を展開しようとしている維新の会に与することになる。直接行政は様々な利害関係を調整しながら進めるのが、手間はかかるが本当の姿。(当たり前の姿とも)

今回の選挙でも共産党が候補擁立を見送り、独自に現職を応援の姿勢。「真の保守」を目指す人に「共産党も応援してる」ということを材料に「引き剥がし」にくる動きが既に。「27日の記者会見で『(竹山氏は)共産党が推す候補者。それも含めて党本部で判断するだろう』」との官房長官談話がそれに力を貸していると感じる。

本来、市民が超党派の候補を選ぶことで、分権というのは進むと思う。格差が広がった社会の中でまるで地方を貢物のように「実験台」に使って本当に国がしなければならないこと先延ばしにする口実に使われるのではないか。

中央は大所高所しか見ないのならそれで結構。地方の意地を見せるためにも「相乗りでも何でも市民のために向く姿勢」を持った人を選んでこそ、自治が守れると思う。

記事の方から近づいてくるとき

23日にアップしたブログに書いた「教師」から受けた影響について、2010年、「現代ビジネス」に5回連続で取材を受けた2回目 の「2頁目」にも書いて貰っています。私の原体験といえるかもしれません。3年前の取材記事が、瞬時(ワンクリック)で呼び出せるという「技術の進歩」に感激しますよね。

何かテーマを決めると、それが連鎖反応的にソースの側から近づいてくるという経験って結構あるような…。結局、潜在的な自意識が「ほら、ここにもあるよ!」と訴えてくれているのかもしれません。そういう意味で、24日の朝日新聞の社説、「『教科書選び』 教委の介入はいらない」はその種類に入るかも。

何しろツイッターなどで大阪の教育の現場がどうなっているのか、ナマ情報を知りたいという呟きをしたり、たまたま出会った学校関係者から「悲鳴」とでもいう声を聞いたりしているので、教育委員会が不採択の指導をしたという部分が目に飛び込んできたのでしょう。

その中で、東京都教委、大阪府教委、神奈川県教委の3つの教委が問題にした個所は「国旗と国歌について『一部の自治体で公務員への強制の動きがある』と書いた一文だ。」という。これは「事実」に反するのか。当然、多くの方は事実だと判っているし、そのことを「なかった」ことにはできないでしょう。

また、この社説の最後は
「神奈川の教委は28校の校長に「採択の際に校名が明らかになると、さまざまな団体が来て混乱が起きる可能性がある」と伝えていた。強い不安を覚えた校長もいるだろう。
 教委が政治的な圧力を恐れて判断を左右することがあってはならない。「圧力次第で教育を振り回せる」という誤ったメッセージにもなりかねない。

 教育の中立を守りぬくという原則が問われている。 」
という言葉で締めくくられている。

もう一点ネットの利便性は22日の段階で産経新聞が「教育委員の懸念よりも学校の判断を優先 埼玉」という記事があることを知らせてくれる。http://sankei.jp.msn.com/region/news/130822/stm13082221580003-n1.htm

埼玉と東京、神奈川、大阪の違いはどこにあるのか。これで振り回されるのは誰なのか。教育は誰のためにあるのか。様々な疑問がわいてきました。

天外伺朗(てんげしろう)さんの「教育の完全自由化宣言!」を読んで

「教育の完全自由化宣言!」というセンセーショナルなタイトルがついたこの本は、2008年に第1刷が発行、そして今年の6月に第2刷が発行されました。

天外伺朗さんは「土井利忠」(本名)という元ソニーの上席常務であり、技術畑を歩んでこられた方ですが、下村博文現文部科学大臣の私的ブレーン集団「教育研究会」のメンバーを2010年まで務められたきっかけになったのが本書であることが「むすび」に書かれています。下村さんが去年の第二次安部内閣で文科大臣に就任されたのを契機に「日本の教育」を巡る環境について、ご自身の経験を踏まえ、本書が新たな使命を持つのではと再版されたのだと思います。

教育学を修めたことのない私ですが、現役市長時代から不思議と教育関係についてご縁を頂くことが多かったですね。自分自身が発達段階で素晴らしい先生に会えたことが、今の自分を作ってくれたという思いがあるからでしょうか。校園長への訓示などという「大層」なタイトルがついた場所でも、「ふとしたことから人生を変えるかもしれない」言葉の発信者としての「教師」の重要性を話したことを覚えています。

本書の中に様々な先達の名前が出てきますが、著者が要約したポイントがわかりやすく、しかもうなずける内容が列挙してありました。モンテッソーリ、シュタイナー、デューイ、ニイル、グリーンバーグなどの名前と、コーチングのガルウェイ、フロー理論のチクセントミハイなどなど。いかに天外さんがフロー状態に入って研究されていたのかが良くわかります。
 

2010年10月10日、出版社140Bから出した「おせっかい教育論」は、広く浅く、大阪という「土地柄」を芯に「本来の学校」「教育の姿」「街場の教育」について鷲田清一、内田樹、釈徹宗という三人の素晴らしい方と2夜のお話をまとめた本でした。

教育の目指すべき方向性というのは、特に発達途上にある子供たちにとっての環境整備。豊かな人生を歩むための基礎を、思いのままに前のめりに追求する時間と場所を保証するということでしょう。そんな思いで、「おせっかい教育論」で初めてお会いした内田先生に大阪市の特別顧問をお願いしたのです。その経緯についてはあとがきに記しました。

現在の日本の教育制度が様々な面で問題を抱えていることは多くの人が気付いているはずですが、それをコントロールする人たちが、まさにそんな教育制度のもとで、著者曰く「大脳新皮質シンドローム」にかかっている人たちだというのはブラックジョークにも聞こえると同時に、病巣の深さをも暗示しています。

この本が目指している教育のあり方を、今すぐに公教育の現場で実践できるものではありませんが、国の教育基本方針なるものの空疎な議論と予定調和の審議会答申などに振り回されず、本当に人間性豊かな市民を連綿と排出する為の学園が一校でも増えてくれたらいいのになぁと感じますし、市井の教育者(ばかりではなく企業人でも)の中に実践を積み重ねている方たちもおられます。

内田先生の特別顧問就任記者会見。私の横で「教育には行政とマーケットは介入すべきではない」と断言されたとき、「その通り」と思って内心、拍手を送ってました。多くの人が気付く教育現場の問題点、缶詰大量生産の子供を作りたいのか、点数至上主義のもたらすものなど、今後の公共政策ラボでも教育の本来の姿について、お話する機会があればと思わせてもらいました。